重症うつ病や分裂病など、自殺が起こりやすい精神科の病気はいくつもあるけれど、彼らの自殺や自傷は、だいたい自分の中にある理由によるものである。しかし、境界例の自傷や自殺はそれとは違い、彼らのコミュニケーションの一つの形であり、メッセージなのだ。だとすれば、彼らがウェブ日記にリストカットの話を書き、リストカット写真を公開するのも、何らかのメッセージであると考えられる。
境界例の人ってのは、「私のことを本当によく知れば、誰も私を愛したり、私と親しくなりたいとは思わないだろう」という信念を持っている。だから、ナマの自分をさらすのは、彼らにとっては非常に難しいことなのだけれど、ウェブでは事情が違ってくる。「コムニタス」という用語と、インターネットが一種の「コムニタス」と考えられることについては、前の項で書きましたね。インターネットというのは、肩書きも素性も知られることがなく、安心してナマの自分をさらすことができる空間なのである。彼らにとってインターネットとは、現実世界で常に感じている「見捨てられる不安」に怯えなくてもいい空間なのかもしれない。
ホームページや掲示板では、参加者はもともときわめてゆるいつながりしかなく、誰もが名前のない他者にすぎない。だからこそ、そこでは「本当の自分」をさらけ出しても、見捨てられる心配はない(一対一のメールだと、いきなりさらけ出したら返事が来なくなる心配があるが)。だから、彼らは日記や写真で「本当の自分」を公開するのだろう(もちろん、それが本当に「本当の自分」なのかどうか、そもそも「本当の自分」なんてものがあるのかどうかはまた別の問題である)。
しかし、境界例的心性の特質として、彼らは自分が見捨てられないことを確かめずにはいられない。
彼らのページを見ていると、リストカット写真のある手前のページに「血が嫌いな方、自傷に偏見のある方は見ないで下さい」などと書いてあることがある。そんなに他者に配慮することができるのならそもそも公開しなきゃいいのに、と思うのだが、彼らは自分が見捨てられないことを、とことんまで確かめずにはいられないのだろう。こんなに「悪い自分」をインターネットが受け止めてくれることを確かめるために、次々と過激なリストカットの写真をアップする。彼らは自傷行為で母や恋人を試すように、リストカット写真を公開することによって、インターネットという共同体自体を試しているのかもしれない。
だとすると、彼らのメッセージとは、当然「自分を見捨てないでほしい」「自分をかまってほしい」というものだろう。
前の項では、ネットが治療的な効果をもたらしている可能性について書いたし、自分をさらけ出しても見捨てられない、という体験をすることは確かに彼らにとって有用だとは思う。でも、ネットは見捨てないかわりに、かまったり抱きしめたりもしてくれない。
彼らはネットで「自分が受け入れられた」という感覚を持てているのだろうか。その答えは人によってまちまちだろうが、リストカット写真を公開しているような人の場合、逆にネットの存在が彼らの行為に拍車をかけている可能性も、決して否定できないと思うのである。” —境界例とインターネット